絵本の最後

  • 2017.09.17 Sunday
  • 15:42

✨✨✨Luna✨✨✨

 

【質問】

なんで現実を放棄するの?

 

【回答】

全ての観念の源は「私」と認識しているものから始まる。

今まで姿や形があるものに名前を与えて、そこに重要性や意味を与えてきた。

しかも、そこに観念まで持ち込んで保持し続けることをしてきた。

その観念を引き起こす心そのものを取り除くと、もうその観念はなんの意味もなくなる。

こんなことを聞くと「どのようにするの」と疑問を持って「どうやってそれをやるのって」って聞きたくなるでしょう(笑)

もうこの時点で現実の放棄どころか現実の保持になってるんだよ。

目に見えるもの全て、聞こえるもの全て、感じるもの全て対象なんだ。

対象を全て放棄するとき、「私は」全てを放棄しているという位置に行ける。

だけど、これはまだ終わってない。

主体と対象というのがあるんだ。

いつまでも主体だと勘違いしている「自分」を全て放棄したとき、

質問の意味も消えるよ。

お前の恐れている放棄とはなんだ?

放棄することで失うものでもあるのかな?

もし失うものでもあるのなら姿形に目を奪われてるだけかもな。

もしそうであるのなら、それを恐れて現実にしがみついてるのは誰かを見出すといいよ。

 

私は最初に「なんで現実を放棄するの」っていう質問をしました。

今ならはっきりわかります。

自分の頭の中のことが全て狂ってるどころか正論のようにはっきり聞こえていたからです。

一日でも長く不足や分離した世界を維持していたいって言う望みそのものだと思いました。

現実世界を放棄すると虚しいって思ったけど、そもそも恐れを源として分離した意識の一部と同化して見てる現実は2つの不幸なのかもって思った。

「願い事が叶わない不幸」「願い事が叶う不幸」なのかもって。

どちらも分離や恐れがあります。いつまでたっても満たされない不足維持って感じがしました。苦しみに飽きるって現実での苦しみよりも「快楽」と呼ばれる一時的に感じて消えゆく喜びや楽しさを追い求める事が飽きたとき苦しみも一緒に飽きてるのかもって思いました。

現実を良くしたいって言う希望や期待がある限り不足や分離維持の言い訳や正論が続いて先延ばしになるだけだとわかりました。

全てが自分が狂っていただけとわかりました。

目の前のことを見て、目の前のことを解釈したりしてしまうのは、

正論な判断をしているように感じるけど、本当は正論じゃないってわかったんです。

例えば、雨が降ってるときに目の前のことを見て「雨が降ってるな」って解釈するけど、

「雨が降ってるな」って言葉であって、目の前に意味を与えてるだけで、

現実を引きとめようってしてるだけでした。

自分の解釈によって苦しみを生み出していること、原因を外に求めていたこと、

不足や分離を維持するための言い訳を解釈を通して先延ばししていたこと。

本当に狂っていたのは自分自身で、狂っていたってわかったときに自分が認識してること、

聞こえていること、感じること、思い浮かぶこと、全てが狂っていました。

「時間なんて存在しないのに時間を感じてしまう」

「肉体も存在していないのに肉体に意識や認識が向く」

「現実世界は存在もしていないのに現実世界を解釈してしまったり」

全ては分離維持、不足維持、現実を引きとめるだけで、

しかもそれは正論のように聞こえるくらい中毒状態だったんです。

本当に自分が狂ってるということすら気がつかないくらい中毒でした。

自分が狂ってるわかったときに「正しい」ことなんてないってわかりました。

何かに対して反論とか何かを感じたりするのは自分が狂ってるだけなんですね。

本当に「無」そのものであって、恐れや不安なんて体験のしようがないんです。

だけど自分が狂ってることすらわからないくらい中毒状態になっているから、

恐れや不安が正論のように感じたり、思い浮かぶことや目の前のことを見て解釈したことが正しく見えるだけなんです。

もっと言うと現実世界で雨が降っていたら「雨が降ってるな」って解釈するのは正論かもしれないけど、現実世界は存在もないのに、どうして「雨が降ってるな」って解釈できるのか。

名前や姿形に囚われて、そのリアルさが現実世界に存在を与えてしまい恐れを生み出していたこと。

さらに姿形に執着して、執着してることすら忘れ形に目を奪われて分離や不足の言い訳になって真実を隠蔽する道具になっていたこと。

そして「無」を恐れるものと見なして架空の捏造をしていたこと。

「無」は恐れはないのに、全てが「無」を恐れてるから先延ばしの言い訳がさらに正論のようになっていたこと。

「無」に触れることを恐れて現実世界という外側に意識を向けることを選んでいたこと。

何かが「無」に触れたとき、それは「無」になっていくことがわかりました。

「無」になっていく事を一番の恐れと見なして、言い訳を十何年もし続けてきたのは私自身でした。

全ては狂ってるのに狂ってないって主張するために必死になっていたってわかりました。

現実世界の放棄ってまず自分自身が狂ってるって認めることがスタートなのかもって思いました。

本当に旅に行くって決めて行ってよかったです。

もし旅に行くって思ったときに頭の中の事が正論のように聞こえすぎて旅に行かなかったら先延ばししてたかもしれない。

本当に過去や未来や妄想、解釈など全ては自分が狂ってるだけでした。

今まで全て狂ってる状態で人と接したり話をしていました。

どうして人に話を聞いて解釈する必要があるのかなって不思議に思える。

自分の解釈や判断なんて本当に狂ってました。

存在がない世界に存在を見て、そこで判断や解釈をしていたんですから(笑)

すごい技ですよね(笑)

しかも、それを正論だと思えるくらいまでリアルを見ていたんです(笑)

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