「すべての魂は死後に安らぎを見いだす。 ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない。」

  • 2017.05.14 Sunday
  • 09:46

「すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない。」

この言葉ってすごいよね〜。

自我ちゃんと同化してることすら気が付かないで肉体を終えるまで既に無条件で与えられている安心、充足も見出せないで終わる。

でも、私ちゃん、肉体があるときに、安らぎを見出しちゃったー。

本当にすごいよねー。

ただ安心、ただ充足だよー。

この言葉の意味がわかるんだよ〜。

私ちゃんにはお姉のような人がいるんだけど、いつも自我ちゃんと向き合ってるときに、支えてくれたんだよねー。
だから、すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂は死の前に、安らぎを見いだすとは限らない。
この言葉って本当にそうだよーって思える。
自我ちゃんはいつも主役になりたがっちゃうからわからなくなっちゃうんだよねー。

神へ帰るって本なんだけど、読みましぇーんw
だって分厚いし長〜いw

銀太さんより

  • 2017.05.14 Sunday
  • 09:45

自分を愛そうとしているのは誰なのか
自分の全てをありのまま許してくれているのは誰なのか
自分のどんな側面も受け入れてくれているのは誰なのか
気がつきましたか?

他でもない、自分ですよね。
それを考えてみたら、充分なほど愛されています。
最初から愛の中にいたんです。

元プー太郎さん

  • 2017.05.14 Sunday
  • 09:43

今、財布の中にあるお金は「今」のお金ではありません。
現実に見えている風景は肉眼で捉えるまで時差があります。

よって今財布の中にあるお金は今のお金ではなく、過去のお金です。

どの方向へ進もうと、「わが家」に帰り着かないはずがない。

  • 2017.05.14 Sunday
  • 09:42

笑顔さん



今日はこれをテーマにして話してみたんだ。
本当に行く道がわかってるのに抵抗するたび道が見えなくなってしまい、どこへ向かうのかと考え出してしまう。
これがエゴが主役になって、道があったことすら忘れてしまう状態。
だけど、本当は、どこへ行こうとちゃんと道の上を歩いてるのにエゴはいつも、不安なことに目がいってしまい、道をそれたりするんだけど、行きつくところは全て同じところだってことだよ。
実はエゴは自分ではなかったというところに気がつく日がいつか来る。だけど、それはいつなのかわからないけど、行き着くところは同じで、最初から幸せだったってことかな。


私の体験談をエゴとかっていう言葉を使って話してみました。
なんとなく来てる人はエゴとかわかってる感じだった。



私は、本当に人のためにと言うのが強かったんだ。
彼氏もいて、結婚も考えていたんだけどね。
家族で幸せになりたいって思ってた時期があったんだよ。
「人のために、何かのために」と言うことは自分をないがしろにするって教わって、
最初は納得できなかった。彼氏のために何かをしたりするのって愛じゃんとか色々思ったよ。
でも、エゴのことも知ってたし、全部エゴだってことも知ってた。
彼氏とデートに誘われたら自分の用事は二の次って感じで、彼氏が優先で、でも苦しかった。
一つ教わったんだ。「彼氏を見て、何かをしたい」「彼氏にこうなってほしい」とか思いが出たら、それは全部「何かのために」っていうエゴと同化してると。
病気で苦しんでる人、怪我で痛がってる人、悩んで落ち込んでる人、何かのために尽くそうとしてる人を見ると助けたくなるのはエゴです。今だからはっきり言えます。
これは優しさなんかじゃありません。
その現実(幻想)が投影されて見えてるのが嫌で、それを変えようとするから「誰かのために」となってしまうだけなんです。
私は彼氏に条件を持っていました。「結婚を前提」と言う条件があったので、そこから「彼氏のために」となっていました。
もし「彼氏のために」と言うのがなくなったら、どうなるのかって思ったけど、結局はエゴの自作自演の中で過ごしていました。
「他人なんていない、存在すらしていない」だけど彼氏は存在しているように見えました。
「他人なんていない、存在すらしていない」のに「結婚を前提」とか全て条件をつけて、その条件って言う色眼鏡で彼氏を見ていました。
私のエゴは彼氏のことに反応していたんです。
現実と言う幻想の中で恋愛と言うのを通して実態のないものに夢中になって、その反応に応じて幸せ、不幸ってやっていたんです。
目で見えること、耳で聞こえてくること、肉体で反応してるのはエゴです。
「人のために、何かのために」って言うのが消えて来たときに、
・彼氏からどう思われてるのかも、気にならなくなってきました。
・耳から聞こえてくる言葉で幸せ、不幸とかジャッジも消えました。
・悩みがある人とか苦しんでる人と自分の幸せ、不幸っていうことを結びつけなくなりました。
・一番、わかったのはエゴが戯言、じゃあ自分の話も戯言、そして自分も他人も戯言、現実も戯言ってことがわかったことかな。

現実と自分って何も関係ないってことがはっきりわかったことかな。
結局、彼氏と結婚前提で付き合っていたけど、本当は私が早く結婚したいって思いがあったこと、本当に「好き」ってだけでいいのに色々な条件を付けていたこと、その条件が消えていくとなんだか彼氏とか結婚とかの意味が消えて、本当に彼氏のことを「好き」ってことだけで見てなかったことにも気がつきました。
エゴの恋愛をしていたんです。
私の方から彼氏に別れを告げてエゴでやってきた恋愛を終わらせました。
もし、このとき「誰かのために、何かのために」と言うのを彼氏だけは別って感じで例外を設けていら今頃エゴと同化していたかもしれないね。
本当は私は恋愛とかしたいんじゃなくて周囲の目が気になっていたのかもしれないね。
エゴの反応の中で恋をするのか、エゴの外の愛に任せるかなんだよね。
正直、彼氏とか結婚とか今は浮かんでこないけど(笑)
現実で恋愛もいいけれど、恋愛するってことは、今は彼氏、彼女はいないってことです。
そうすると相対の世界で幸せと不幸と言うのがあります。
彼氏、彼女を見つけようとしないことです。
美しくなろうとしないことです。
何かをやろうとしたら、成功と失敗、
そしてうまくいったら、失敗のことが意識が向く、
失敗したら自己否定が始まる。
エゴが何かすることは全て相対になっています。
エゴはこの現実では何もすることがないってことだよ。
外に向けていたエゴの意識を内側に向けて行くときなのかもしれないね。

神へ帰るという本があって、好きなところをアップしてみました。

  • 2017.05.14 Sunday
  • 09:41

笑顔さん

 


どの方向へ進もうと、「わが家」に帰り着かないはずがない。

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

あなたは死ぬことを恐れ、生きることを恐れている。なんという生き方だろうか!

この世界には被害者もいなければ、悪人もいない。

誕生と死は同じことである。

あなたは神とは違うが、しかし神と離ればなれではない。これが、あなたが決して死ぬことがない理由である。

「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

正しい見方をすれば、宇宙に謎などない。

あなたは幸せになるため、それどころか生き延びるために、いろいろなものが必要だと思っている。だが、それはみな、あなたがでっちあげたものだ。

「真実」などというものはない。

すべて神聖な理由と神聖な目的があって、あなたの世界に現れている。あなたが「本当の自分」を知って、選び、表現し、経験し、そして余すところのない存在になる。
闇をののしらず、闇を照らす光となりなさい。起こることはみな、想像するなかでも最高にすばらしい世界と経験に導く道を開くのだから。
今日の出来事を使って、明日の約束を創造し、「いま」の経験を使って、「永遠」の驚異を生み出しなさい。

こんなにわかりやすい言葉ですが、全て目次のページに書かれています。

エゴについても書かれています。
みなさんわかりかすか?

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

本当の自分の本質である充足、安心、安全を見いだす。だけどエゴと同化してると死ぬ前まで、そのことにすら気が付かないで終わってしまう。



「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

知識よりも、本当の真実は体感するもの

自我とかわかって、本当の自分というものを体感するとどうしても思考で理解したいという欲望があります。そしてまた、ストレスや悩みの中に逃げて行ってしまうのです。

そんな人に寄せて一つ書いてみました。

何かを求めるってことは不安が根底にあるのです。
安心したいからです。

新しい教えを教わり体感してしまうと自我が、どうしても理解したいという欲を出してきます。既に体感してわかっているのに、どうして理解したいのでしょうか?

不安が根底になったままなので、どうしても理解して納得したくなるのです。
この世界は結果が先で原因というものは後なのです。
しかし自我は理解して納得したことを受け入れようとします。
体感という結果が先に来てしまうと、順番があべこべになります。
これとこれでこうなるというのが自我です。
こうだと先に結果、そして後からこうだったと言うのが実は真実です。

どうして知識は捨てて体感が先に起きてしまうのか。
こんなのは言うまでもありません。
自我の言いなりになる必要はないからです。
「誰がなんて言おうが変わる」の「誰が」とは自我です。
私は自我の言いなりで変わることはしない、どんな事であれ変わる。
自我で変わろうとすると知識や情報を求めていくことになります。
そしてその知識や情報に振り回されてしまいます。
自我は変化を恐れます。根底に不安があるからです。
自我を飛び越えて体感してしまうと言うのは、自我にとっては物凄い恐怖であります。
この恐怖の穴埋めのために辻褄や理解が欲しくなるのです。そして体感に対して辻褄も知識も求められないとわかると、体感したことすら投げ捨てて逃げます。
ここで言いたいのですが、最初に「誰がなんて言おうが変わる」って決定したことを思い出す時が来たってことです。
自我は不安や恐怖を元にして生きながらえているだけです。
あなたは自我ではありません。体感した方があなた自身なのです。
逃げることはありません。
自我が逃げ出そうとしてるときや、理解や情報を欲ってるときは、
威厳を持って一言言えばいいのです。
「ああ!わかったよ!お前は私ではない!黙ってろ!」
これだけです。

あなたは自我ではありません!
体感したことに対して「どうして、どうして」となってるのは自我の方です。

この通りだと思うんですよ。

この頃、2人の女の子たちも少しづつだけど、変わってきましたよ。神へ帰るという本があって、好きなところをアップしてみました。

どの方向へ進もうと、「わが家」に帰り着かないはずがない。

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

あなたは死ぬことを恐れ、生きることを恐れている。なんという生き方だろうか!

この世界には被害者もいなければ、悪人もいない。

誕生と死は同じことである。

あなたは神とは違うが、しかし神と離ればなれではない。これが、あなたが決して死ぬことがない理由である。

「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

正しい見方をすれば、宇宙に謎などない。

あなたは幸せになるため、それどころか生き延びるために、いろいろなものが必要だと思っている。だが、それはみな、あなたがでっちあげたものだ。

「真実」などというものはない。

すべて神聖な理由と神聖な目的があって、あなたの世界に現れている。あなたが「本当の自分」を知って、選び、表現し、経験し、そして余すところのない存在になる。
闇をののしらず、闇を照らす光となりなさい。起こることはみな、想像するなかでも最高にすばらしい世界と経験に導く道を開くのだから。
今日の出来事を使って、明日の約束を創造し、「いま」の経験を使って、「永遠」の驚異を生み出しなさい。

こんなにわかりやすい言葉ですが、全て目次のページに書かれています。

エゴについても書かれています。
みなさんわかりかすか?

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

本当の自分の本質である充足、安心、安全を見いだす。だけどエゴと同化してると死ぬ前まで、そのことにすら気が付かないで終わってしまう。



「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

知識よりも、本当の真実は体感するもの

自我とかわかって、本当の自分というものを体感するとどうしても思考で理解したいという欲望があります。そしてまた、ストレスや悩みの中に逃げて行ってしまうのです。

そんな人に寄せて一つ書いてみました。

何かを求めるってことは不安が根底にあるのです。
安心したいからです。

新しい教えを教わり体感してしまうと自我が、どうしても理解したいという欲を出してきます。既に体感してわかっているのに、どうして理解したいのでしょうか?

不安が根底になったままなので、どうしても理解して納得したくなるのです。
この世界は結果が先で原因というものは後なのです。
しかし自我は理解して納得したことを受け入れようとします。
体感という結果が先に来てしまうと、順番があべこべになります。
これとこれでこうなるというのが自我です。
こうだと先に結果、そして後からこうだったと言うのが実は真実です。

どうして知識は捨てて体感が先に起きてしまうのか。
こんなのは言うまでもありません。
自我の言いなりになる必要はないからです。
「誰がなんて言おうが変わる」の「誰が」とは自我です。
私は自我の言いなりで変わることはしない、どんな事であれ変わる。
自我で変わろうとすると知識や情報を求めていくことになります。
そしてその知識や情報に振り回されてしまいます。
自我は変化を恐れます。根底に不安があるからです。
自我を飛び越えて体感してしまうと言うのは、自我にとっては物凄い恐怖であります。
この恐怖の穴埋めのために辻褄や理解が欲しくなるのです。そして体感に対して辻褄も知識も求められないとわかると、体感したことすら投げ捨てて逃げます。
ここで言いたいのですが、最初に「誰がなんて言おうが変わる」って決定したことを思い出す時が来たってことです。
自我は不安や恐怖を元にして生きながらえているだけです。
あなたは自我ではありません。体感した方があなた自身なのです。
逃げることはありません。
自我が逃げ出そうとしてるときや、理解や情報を欲ってるときは、
威厳を持って一言言えばいいのです。
「ああ!わかったよ!お前は私ではない!黙ってろ!」
これだけです。

あなたは自我ではありません!
体感したことに対して「どうして、どうして」となってるのは自我の方です。

この通りだと思うんですよ。

この頃、2人の女の子たちも少しづつだけど、変わってきましたよ。神へ帰るという本があって、好きなところをアップしてみました。

どの方向へ進もうと、「わが家」に帰り着かないはずがない。

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

あなたは死ぬことを恐れ、生きることを恐れている。なんという生き方だろうか!

この世界には被害者もいなければ、悪人もいない。

誕生と死は同じことである。

あなたは神とは違うが、しかし神と離ればなれではない。これが、あなたが決して死ぬことがない理由である。

「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

正しい見方をすれば、宇宙に謎などない。

あなたは幸せになるため、それどころか生き延びるために、いろいろなものが必要だと思っている。だが、それはみな、あなたがでっちあげたものだ。

「真実」などというものはない。

すべて神聖な理由と神聖な目的があって、あなたの世界に現れている。あなたが「本当の自分」を知って、選び、表現し、経験し、そして余すところのない存在になる。
闇をののしらず、闇を照らす光となりなさい。起こることはみな、想像するなかでも最高にすばらしい世界と経験に導く道を開くのだから。
今日の出来事を使って、明日の約束を創造し、「いま」の経験を使って、「永遠」の驚異を生み出しなさい。

こんなにわかりやすい言葉ですが、全て目次のページに書かれています。

エゴについても書かれています。
みなさんわかりかすか?

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

本当の自分の本質である充足、安心、安全を見いだす。だけどエゴと同化してると死ぬ前まで、そのことにすら気が付かないで終わってしまう。



「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

知識よりも、本当の真実は体感するもの

自我とかわかって、本当の自分というものを体感するとどうしても思考で理解したいという欲望があります。そしてまた、ストレスや悩みの中に逃げて行ってしまうのです。

そんな人に寄せて一つ書いてみました。

何かを求めるってことは不安が根底にあるのです。
安心したいからです。

新しい教えを教わり体感してしまうと自我が、どうしても理解したいという欲を出してきます。既に体感してわかっているのに、どうして理解したいのでしょうか?

不安が根底になったままなので、どうしても理解して納得したくなるのです。
この世界は結果が先で原因というものは後なのです。
しかし自我は理解して納得したことを受け入れようとします。
体感という結果が先に来てしまうと、順番があべこべになります。
これとこれでこうなるというのが自我です。
こうだと先に結果、そして後からこうだったと言うのが実は真実です。

どうして知識は捨てて体感が先に起きてしまうのか。
こんなのは言うまでもありません。
自我の言いなりになる必要はないからです。
「誰がなんて言おうが変わる」の「誰が」とは自我です。
私は自我の言いなりで変わることはしない、どんな事であれ変わる。
自我で変わろうとすると知識や情報を求めていくことになります。
そしてその知識や情報に振り回されてしまいます。
自我は変化を恐れます。根底に不安があるからです。
自我を飛び越えて体感してしまうと言うのは、自我にとっては物凄い恐怖であります。
この恐怖の穴埋めのために辻褄や理解が欲しくなるのです。そして体感に対して辻褄も知識も求められないとわかると、体感したことすら投げ捨てて逃げます。
ここで言いたいのですが、最初に「誰がなんて言おうが変わる」って決定したことを思い出す時が来たってことです。
自我は不安や恐怖を元にして生きながらえているだけです。
あなたは自我ではありません。体感した方があなた自身なのです。
逃げることはありません。
自我が逃げ出そうとしてるときや、理解や情報を欲ってるときは、
威厳を持って一言言えばいいのです。
「ああ!わかったよ!お前は私ではない!黙ってろ!」
これだけです。

あなたは自我ではありません!
体感したことに対して「どうして、どうして」となってるのは自我の方です。

この通りだと思うんですよ。

この頃、2人の女の子たちも少しづつだけど、変わってきましたよ。

どの方向へ進もうと、「わが家」に帰り着かないはずがない。

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

あなたは死ぬことを恐れ、生きることを恐れている。なんという生き方だろうか!

この世界には被害者もいなければ、悪人もいない。

誕生と死は同じことである。

あなたは神とは違うが、しかし神と離ればなれではない。これが、あなたが決して死ぬことがない理由である。

「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

正しい見方をすれば、宇宙に謎などない。

あなたは幸せになるため、それどころか生き延びるために、いろいろなものが必要だと思っている。だが、それはみな、あなたがでっちあげたものだ。

「真実」などというものはない。

すべて神聖な理由と神聖な目的があって、あなたの世界に現れている。あなたが「本当の自分」を知って、選び、表現し、経験し、そして余すところのない存在になる。
闇をののしらず、闇を照らす光となりなさい。起こることはみな、想像するなかでも最高にすばらしい世界と経験に導く道を開くのだから。
今日の出来事を使って、明日の約束を創造し、「いま」の経験を使って、「永遠」の驚異を生み出しなさい。

こんなにわかりやすい言葉ですが、全て目次のページに書かれています。

エゴについても書かれています。
みなさんわかりかすか?

すべての魂は死後に安らぎを見いだす。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない

本当の自分の本質である充足、安心、安全を見いだす。だけどエゴと同化してると死ぬ前まで、そのことにすら気が付かないで終わってしまう。



「究極の現実」を真に理解するためには、あなたは理性/心の外に出なければならない。

知識よりも、本当の真実は体感するもの

自我とかわかって、本当の自分というものを体感するとどうしても思考で理解したいという欲望があります。そしてまた、ストレスや悩みの中に逃げて行ってしまうのです。

そんな人に寄せて一つ書いてみました。

何かを求めるってことは不安が根底にあるのです。
安心したいからです。

新しい教えを教わり体感してしまうと自我が、どうしても理解したいという欲を出してきます。既に体感してわかっているのに、どうして理解したいのでしょうか?

不安が根底になったままなので、どうしても理解して納得したくなるのです。
この世界は結果が先で原因というものは後なのです。
しかし自我は理解して納得したことを受け入れようとします。
体感という結果が先に来てしまうと、順番があべこべになります。
これとこれでこうなるというのが自我です。
こうだと先に結果、そして後からこうだったと言うのが実は真実です。

どうして知識は捨てて体感が先に起きてしまうのか。
こんなのは言うまでもありません。
自我の言いなりになる必要はないからです。
「誰がなんて言おうが変わる」の「誰が」とは自我です。
私は自我の言いなりで変わることはしない、どんな事であれ変わる。
自我で変わろうとすると知識や情報を求めていくことになります。
そしてその知識や情報に振り回されてしまいます。
自我は変化を恐れます。根底に不安があるからです。
自我を飛び越えて体感してしまうと言うのは、自我にとっては物凄い恐怖であります。
この恐怖の穴埋めのために辻褄や理解が欲しくなるのです。そして体感に対して辻褄も知識も求められないとわかると、体感したことすら投げ捨てて逃げます。
ここで言いたいのですが、最初に「誰がなんて言おうが変わる」って決定したことを思い出す時が来たってことです。
自我は不安や恐怖を元にして生きながらえているだけです。
あなたは自我ではありません。体感した方があなた自身なのです。
逃げることはありません。
自我が逃げ出そうとしてるときや、理解や情報を欲ってるときは、
威厳を持って一言言えばいいのです。
「ああ!わかったよ!お前は私ではない!黙ってろ!」
これだけです。

あなたは自我ではありません!
体感したことに対して「どうして、どうして」となってるのは自我の方です。

この通りだと思うんですよ。

この頃、2人の女の子たちも少しづつだけど、変わってきましたよ。

知識よりも、本当の真実は体感するもの

  • 2017.05.14 Sunday
  • 09:37

Pパンさん



自我とかわかって、本当の自分というものを体感するとどうしても思考で理解したいという欲望があります。そしてまた、ストレスや悩みの中に逃げて行ってしまうのです。

そんな人に寄せて一つ書いてみました。

何かを求めるってことは不安が根底にあるのです。
安心したいからです。

新しい教えを教わり体感してしまうと自我が、どうしても理解したいという欲を出してきます。既に体感してわかっているのに、どうして理解したいのでしょうか?

不安が根底になったままなので、どうしても理解して納得したくなるのです。
この世界は結果が先で原因というものは後なのです。
しかし自我は理解して納得したことを受け入れようとします。
体感という結果が先に来てしまうと、順番があべこべになります。
これとこれでこうなるというのが自我です。
こうだと先に結果、そして後からこうだったと言うのが実は真実です。

どうして知識は捨てて体感が先に起きてしまうのか。
こんなのは言うまでもありません。
自我の言いなりになる必要はないからです。
「誰がなんて言おうが変わる」の「誰が」とは自我です。
私は自我の言いなりで変わることはしない、どんな事であれ変わる。
自我で変わろうとすると知識や情報を求めていくことになります。
そしてその知識や情報に振り回されてしまいます。
自我は変化を恐れます。根底に不安があるからです。
自我を飛び越えて体感してしまうと言うのは、自我にとっては物凄い恐怖であります。
この恐怖の穴埋めのために辻褄や理解が欲しくなるのです。そして体感に対して辻褄も知識も求められないとわかると、体感したことすら投げ捨てて逃げます。
ここで言いたいのですが、最初に「誰がなんて言おうが変わる」って決定したことを思い出す時が来たってことです。
自我は不安や恐怖を元にして生きながらえているだけです。
あなたは自我ではありません。体感した方があなた自身なのです。
逃げることはありません。
自我が逃げ出そうとしてるときや、理解や情報を欲ってるときは、
威厳を持って一言言えばいいのです。
「ああ!わかったよ!お前は私ではない!黙ってろ!」
これだけです。

あなたは自我ではありません!
体感したことに対して「どうして、どうして」となってるのは自我の方です。

☆☆☆不安は絶対に実現化しない☆☆☆

  • 2017.05.11 Thursday
  • 07:34

☆☆笑顔さん☆☆



良い事を考えると不安を考えるとかってありますよね。
これはエゴなんだけど、
本当の自分は全てのことに対して「はい、そうです」ってしか言わないんですよ。
これが前提でわかっていると、自分の前提が採用されてしまうんです。

私の認識は「自分=世界」「既に願望実現された世界にいる」「意図=実現されてる」って感じなんですね。
この前提になっているので、意図した後に「まだ叶ってない、まだ実現されてない」とか不安になっても、虚ってことです。

実現された後の世界にいるのに叶ってないって思考していたりしてるのは、過去のことに対して間違った認定をしてるのか、

現実が遅れてるのかって程度です。
既に意図実現された後にいるので、叶ってないとかって言ってるのは、あきらかにエゴだってことがわかります。
そしていつ叶うんだろうってなってるのも、現実をチラチラ確認したがるのもエゴだってことです。
投影済みの現実に対して、もっと言えば過去のことを見て今のように捉えているのもエゴってことです。
こうなると不安とか恐れは現実化しないってことです

 

☆☆☆自分が消える☆☆☆

  • 2017.05.11 Thursday
  • 07:33

☆☆笑顔さん☆☆




「自分=世界」「既に在る」とかって、何があっても変わらない位置があるんです。

そこが本当の自分だとわかってから受け入れられる。

不安とか怒りとかイライラとか安心、幸せとかってなんでわかるんですか?

それは気がついてるからわかるんです。
観察するものがあるから観察できるんです。

唯一変わらないのは観察してるってことです。
その観察してる位置から見ると相対世界が全て見えます。
エゴの視点だと片方しか見えないものが両方見えます。
そのときに観察してる位置にいると、エゴがよく見えます。
そしてエゴは自分のものじゃないという自覚が出てくるんです。
そうなると今まで自分だと思っていたものが全て自分じゃないってことがわかります。
エゴは、そんなことを認めないけれど、相対世界の両方が見えたとたんに自分というものが消えていきます。

そのときに認識を変えることができます。
だけど、本当に自分の領域に対してあやふやな感じだと自分があるってことです。

自分が消えていくと「自分=世界」「既に在る」「充足」ということがわかってきます。
自分=世界の自分というのはエゴが認定する自分じゃないってことです。

エゴの自分が消えて残った自分ということです。
今まで主語になっていた自分が消えていくことで、ありのままの世界が見えます。
自分が消えることで現実は幻想だったということがわかります。
自分が消えることで現実は愛だったということがわかります
 

☆☆☆真摯な姿勢☆☆☆

  • 2017.05.11 Thursday
  • 07:31

☆☆笑顔さん☆☆


色々アレンジするのはエゴ。

例えば「充足を見る」ってあるりますよね。
でも「充足ってなに?」「充足を見るのは難しい」って難しいって思い浮かんだ時点でエゴの認定。

エゴの言いなりなってるから充足が見れないし、わざわざ自分で遮断してしまっている状態になっています。

その充足を遮断していることにも気がつかないからエゴの範囲で色々アレンジしてエゴを説得させる方を採用してしまう。

「充足を見る」ってただ、充足を見ようって意図を働かせるだけ。

だけどエゴは、どこに充足があるんだろうって探すけどそんなエゴの声は無視して充足を見ようって意図を意識的に持つことが大事。

自分の決定したことに対してエゴがなんて言おうが関係なく決定を持ち続けるのが充足を見る真摯な姿勢だと思います。
そこに色々なアレンジはいりません。

そしてエゴは今現在の不足を見ていますが、この不足の事態が消えたら充足だっていうのはエゴが提唱する現象化が大前提になってる。

エゴが考える充足って大きな幸福感というのが大前提になっているから、ガッツリとした不足を採用してからになります。

充足って天気がいい日に気持ちがいいねって小春日和の下で気持ちがいいねってつぶやいてる感じの程度です。
この気持ちがいいねって感じがいつでも、どこにでもある感じです。
大きい幸福感じゃなくて、寧ろ小さい、小さい幸福感って感じです。
エゴの求める大きな幸福感とは相対世界では大きな不足がつきものです。
現状を全て不足と捉えて、その中で幸せを探すのはエゴ。

充足を見るというのは、最初から与えられていた充足を見るってことです。

エゴが何を言おうが充足を見る姿勢が大事だってことです。


 

☆☆☆ただ、受け取るだけ☆☆☆

  • 2017.05.11 Thursday
  • 07:28

☆☆笑顔さん☆☆



「苦痛を感じること」「嫌なこと」が目の前に出てきたときに、
対処をしたり、その場を切り抜けるとか思いますよね。
特につらい状態が続いた場合にはマイナス感情も含めて、
早めに折り合いをつけて楽になりたいって思いますよね。

でも、対処したり、折り合いをつけたりしません。

「ただ受け取るだけ」

この嫌な感情はこうだな、これだなってエゴは言うけど、それとは関係なく、ただ受け取るだけです。